No.002 地蔵菩薩



仏像とは何か
それは石に刻まれし仏の姿なり
而して 仏とは
仏とは悟りたる者なり
然からば 悟りとは・・・

悟りとは何か・・・
釈迦没後二千六百年の永きにわたり
幾多の仏門僧侶が求めてやまぬ修行の道

何の為の修行か 何の為の悟りか
修行者たちは問う
悟りとは何か・・・


仏の道は二つある
一つは難行道
己の悟りを求めて厳しい修行に励む道

いま一つは易行道
衆生済度に重きをおく道

されど 難行道易行道 別ものにあらず
衆生済度なくして 仏道なし
修行なくして 仏道なし

No.003 観音菩薩
民の救いの中に修行があり
修行の中に民の救いがある

即ち 衆生済度なき悟りはなく
悟りは衆生済度の道にある


今より二千六百年の昔、古代インドの地、釈迦国の王子ゴータマ・シッタルダーは王宮の贅沢な暮らしを捨て、悟りを求めて苦行の道に入りました。 六年にも及ぶ苦行の果てに肉体は衰え、その苦しい日々の中から苦楽中道を悟ります。 贅沢な暮らしの中に魂の喜びはなく、死を覚悟した苦行の中にも魂の喜びはなく、苦楽中道・・・中なる道に悟りのよすがを見いだします。
人は安楽な暮らしの中で悟りを得ることはできない。
人は苦しみの中で悟りを得ることはできない。
中なる生き方の内にこそ、悟りへの道があることを見いだします。

釈迦族の一修行者は苦行の道を捨て、菩提樹の下で禅定の日々を送りました。
その心に去来するものは王宮での日々、そして六年間の苦行の日々・・・。
幼き頃に失った母マヤ、釈迦族を統率する父シュットダナー、そして娶ったばかりの妻ヤショダラ・・・。
王宮での生活は如何であったか、家族を捨てて励んだ苦行の日々は如何であったか・・・、菩提樹下の修行者は過去を振り返ります。
王族達の豪華な生活、それとは対照的な民衆の貧しい生活。
そんな中にあって自分は何を為したのか、修行者は回顧します。

自分は正しさの中に生きただろうか・・・。 民衆の幸せの為に何をやったであろうか・・・。
修行者の瞳から涙が溢れます。
自分は人々の為に何かを為さねばならない。
貧しき人々の為に何かを為さねばならない。

修行者は過去の生き方を振り返り、己の悟りの道を見極めていきます。


No.004 **菩薩
釈尊は何を悟ったのか・・・


菩提樹下で大悟した釈迦は、物による幸福ではなく、心による幸福を説きます。
貧しさは永遠のものではなく、たとえ国王であろうとも、奴隷階級の者であろうとも、その死後においては心の姿によって赴く所が決まる。 貴族だから素晴らしい世界に入れるというのではない。 シュードラだから死後も奴隷のままでいるというのでもない。 死後どのような世界に入るかは、生前の生き方、そして心がどのような姿であったかによって決まる。

釈迦は厭世哲学を説いたのではありません。 また、無学文盲の人々に難解な思想を説いたのでもありません。
釈迦の教えの中核は心の処し方にあります。 自らの心を処すること・・・、それは単なる気休めではなく、死後の世界実在を前提としたところの、死後に良き世界へ赴く為の現実的な方法論でした。

八つの正しき道。
正しく見る、正しく言う、正しく働く、正しく生きる、正しく思う、正しく精進する、正しく念ずる、正しく定に入る。
そして、釈迦は正しさを知る為の基準を人々に教えました。
これは死後の世界を否定するならば、さして意味のない道徳論になってしまいます。
釈迦の教えの前提には死後観がありました。
仏教から死後観を取り去ると、仏教そのものの命を失います。

八正道の教え、中道の教え、空の理論、これらはこの世とあの世を貫く生き方を説いたものです。
この世とあの世の関係(色即是空)、この世では富に恵まれなくとも、心の内に豊かさを築けば、その豊かさが死後の富になる、と説きました。
二千六百年もその教えが遺ったのは、それは気休めの道徳論ではなく、真実を語るものであったからです。




而して 仏像とは何か・・・


仏像とは釈尊の説く道に誘うもの、釈尊の説く悟りの道へと誘う縁を与えるものです。
私はその役割を生き甲斐としています。