No.005 観音菩薩



大悟した釈尊は人々に生老病死の理を説きました。
これは、人生とは虚しいものなり、という現実否定の教えではなく、この世における現実を大切に生きる、というところから生まれた教えです。
釈迦の教えを厭世的な現実逃避と評する方々もいますが、そうではなく、積極的な現実直視から生まれた教えです。

生老病死の中の老と病と死、これは私達にとって避けることのできない切実なるテーマです。
いつまでも若さを失わない人はいません。
永久に生きる人はいません。
生きとし生けるもの、植物も動物もそして人間もみな総て、この厳然たる法則から逃れることはできません。

釈尊は何故、生老病死の理を説いたのでしょうか。
それは人の心の苦しみに執着という要因があるからです。
ああしたい、こうしたい、ああ成りたい、こう成りたい、あれが欲しい、これが欲しい・・・、人々の欲望はとどまるところがありません。
求めて求めて、それが手に入らない時、心の中に苦しさにも似た拘わりの思いがわだかまります。
執着とは拘わり、これが人の心を苦しめる要因の一つになっています。

拘わる思いは総ていけないのか・・・、そうではありません。
正しきことへの拘わりは苦しみになるようなことはありません。 心を苦しませるような拘わり、足に鉄の玉を付けて歩くような、そんな拘わりは心に暗い影を落とします。

この世への執着、この世の富への執着、死にたくない、もっと財が欲しいと貪欲になる心、貪りとは財への執着です。


No.006 **菩薩
生老病死の教えは執着への防波堤・・・。
欲望の水を氾濫させてはならない。 欲望は田畑を潤す水の役割もします。 だが、それを氾濫させた時、せっかく植えた苗は倒され、過ぎたる欲望は人生に暗い影を投げかけます。
それが心の姿ならば、その人の死後は暗い世界になるでしょう。
他者から強制されてそんな暗い世界へ封じ込められるのではありません。 それがその人の創造している世界だからです。


老いたくないと執着したところで、肉体の老いを止めることはできません。
それでも老いたくないと拘わるならば、それは正当な願いではなく、故に心の苦しみの原因となります。
物事には諦めるべき事柄、そして甘受すべき事柄があります。
足ることを知って適度なところで諦めること、たとえ結果が悪くとも素直に受け止めるべき瞬間が人生には数多くあります。

病の苦しみ・・・、そして死への恐れ。
私達にとって、死は重要なテーマです。 人生の半ばを過ぎた者にとって、老病死の法則が無慈悲に襲ってきます。
必ず襲ってくるものならば、それを恐れるのはやめ、成るようにしか成らないと諦めるしかありません。
それは脱力感からではなく、だからこそ、今を大切に生きることの意味を深く噛みしめるに至ります。


釈尊の教えは死後観を前提にしています。
死後の世界の実在を前提にせずして、生老病死を語ることに何の意味があるのでしょうか。
闘病の中にある人々は死への恐怖と共に日々を過ごしています。
もしかして、今日死ぬかもしれない・・・。そんな悲しさを感じながら、死の床は我が家の畳の上でありたいと願ったりします。


No.007 少女像
自分がそうであるように、隣にも、その隣にも、病室には、まるで死ぬ順番を待つ人々のような悲しく暗い光景があります。
ときに肉体の苦痛にさいなまれ、我が人生の罪過を責められるような・・・、自分だけがこんな悲痛を被っているような・・・、その苦痛を誰に訴えればいいのか・・・、病の人々にはそんな悲しみがあります。

看護婦の足音、点滴台を引きずる物音、そして隣のベッドで苦痛に呻く患者の声・・・。 マラソン・ランナーの苦しみならば、最後に栄冠の喜びがある。 だが、病める者の苦しみには死のゴールしか待っていない。
夜の暗い天井を見つめながら、次は誰の番だろう・・・と考えたりする。 重い病を患う病室にはそんな悲しみがあります。

もしも自分の番になった時、人々はどう感ずるものでしょうか。
夜のしじまに死に神が病床の傍らへ立ち、次はあなたの番です、と告げられたならば、人々はどう感ずるものでしょうか。
生への執着にある人は慌てふためき、俺は死にたくない、と何度も心の中で叫びます。
その叫びは誰にも聞こえず、掌で虚空を掴むだけです。

病床に横たわり、まだ生きていると思っているのに、まだ命があると思っているのに、診察の医師から臨終ですと宣告されたら、人々はどう感ずることでしょうか。
私達にはこんな瞬間がいずれやってきます。
それが厳然たる法則であるならば、素直に受け止めるしかありません。
死後には別の世界が待っています。
その真実がなければ、釈尊はこの世の苦しみを改めて強調する必要がありません。